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 詞書によれば、宇多上皇の奈良行幸(昌泰《しようたい》元年〔八九八〕の吉野行きの途上であろうと言われる)のときよんだ歌である。このたび、は「度」と「旅」をかけている。ぬさ、は幣で、錦又は色絹を細かく刻んだもので、袋に入れて持参し、打ち散らして神にたむけたもの。とりあへず、については御供の準備にいそがしくて持参しなかったの意と、紅葉の美しさに対してじぶんの持っている幣の見すぼらしさを恥じてとり出しえないの意とに解する説がある。とりあへず、にはいそいだ感じがあるし、一首ぜんたいとしては紅葉の美をたたえるのがテーマでもあるから、その両方の気持を生かして解することもムリではないだろう。手向山、は若草山の南麓に手向山神社があるが、当時の吉野旅行の道順からかんがえると、それではない。したがってこれは固有名詞ではない。もともと、峠《たうげ》(とうげ)ということばは、「手向《たむけ》」ということばが語源と言われるくらいで、ここも特定の山でなく、当時の奈良のどれかの山とみるべきところ。なお、契沖の説に関連して石田吉貞氏にもくわしい考証がある。まにまに、はままにの意。『遠鏡』頭註では「神は御心まかせにと存じて」と口語訳している。  菅家は菅原道真で、彼も漢学の大家であった。この旅行のとき、おなじく紅葉の美を詠じた漢詩なども残している。秋の色づいた木の葉を幣にたとえる歌は、たとえば「たつたひめ たむくる神の あればこそ 秋のこのはの ぬさとちるらめ」(古今集巻五)などもあり、当時の類型的な発想になっていた。 [#1字下げ]山ざとは 冬ぞさびしさ まさりける 人めも草も かれぬとおも|へ《え》ば  山里の寂しさはいつものことだが、ことに冬はその思いがひとしおである。人も訪ねて来なくなったし、草も枯れてしまったなあと思うから、いよいよ寂しさがつのる。  冬ぞ、の「ぞ」は強勢で、山里はいつも寂しいが殊に冬は、というところである。かれぬ、は草が枯れると、人目が離《か》れるの両義がかかっている。ただし人目が離れるには反対意見もある。結句のおもへば、は、たとえば『遠鏡』では「ただ枯れぬればといふに同じ。思ふに意なし。此の例多し」と註して、「今まではたまたま見えた人目もかれる、草も枯れたによつてさ」と軽く訳している。三句切れの歌で、この句法の歌が多くそうであるように、意味は倒置されている。異本には、第二句「冬ぞわびしさ」となっているものあり。  小倉百人一首に数すくない冬の歌のひとつである。この時代の歌としてはクセのないすらっとしたうたいぶりで、そこがもの足りぬとも言いうるが、冬のわびしさがすなおに表現されているところとも言いうるのではないか。冬の歌だから地味にうたえばよいというわけではないけれども、人めも草もかれぬ、というところの掛詞の技巧なども、とくにとりたてて目立つほどのことはない。西行の「さびしさに たへたる人の またもあれな いほりならべむ 冬の山里」という作品などの思いあわされる調子がある。特にすぐれた作品というほどではないにしても、好感のもてるものである。 [#1字下げ] 源宗于朝臣[#「源宗于朝臣」はゴシック体](?─九三九?) 没年については天慶三年(九四〇)とする説もある。平安朝の人。光孝天皇の第一子|一品式部卿是忠《いつぽんしきぶきようこれただ》親王がその父である、寛平六年(八九四)に臣籍にはいり源の姓となった。延喜のころ三河や相模、信濃などの地方官を転々とし、承平三年(九三三)に右京大夫となった。是忠親王の子であるが、昇進はおそかった。『大和物語』に、かれが紀州から石についた海藻、水松《みる》を宇多院へおくったとき、身の不遇を歎いてよんだという歌がみえる。三十六歌仙のひとりで、家集に『宗于朝臣集』がある。『古今集』以下の勅撰集にはいる歌は十五首。 〈29〉凡河内躬恒《おおしこうちのみつね》 [#5字下げ]古今集 巻五・秋  しらぎくの花をよめる [#1字下げ]心あてに をらばやをら|む《ん》 初霜の おきまど|は《わ》せる 白菊の花  あて推量で位置をさぐりあてて、折るならば折ってみるよりほかあるまい。なにしろ初霜があたり一面を真白にしてしまい、白菊の花がどこに在るのかわからなくなってしまったのだから。  心あて、はあて推量の意。をらばやをらむ、には諸説があるが、要するに「や」を詠歎の助詞とみるか、疑問の係助詞とみるかのちがいで、後者の方が妥当であろう。契沖は、折るならば折ってみようかと言いながら、やはり折るまいの意を含んでいるとみている。初霜のおきまどはせる、は初霜が置き、白菊の位置をまどわせるという語法と解する説が多い。このばあいは、意味のうえで「初霜のおき」(「の」は主格を示す助詞)と、三句から四句へ跨がるわけで巧みな句法とは言いがたい。もちろんまたここは、「おきまどはす」という四段活用の複合動詞とも解しうるわけで、ほとんどすべての註釈書はここのところを、両方の意味に解している。しかし、「初霜のおき」は、どうみても不自然で、「おき」は「まどはせる」へ附けてよむべきであろう。
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